「温泉に入りたいが、見知らぬ他人と裸で湯船を共にするのには抵抗がある」——これは、欧米・ASEANを中心とした訪日客が温泉体験の前で立ち止まる、もっとも一般的な心理的ハードルである。複数の調査で、訪日客の過半が共同浴(裸での大浴場利用)に抵抗を示すと報告されており、温泉を観光資源として磨き込む日本にとって、このギャップは無視できない。本稿では、この「裸での共同入浴への抵抗」を、英語をはじめとする多言語口コミの言及データと国別需要の観点から検証し、貸切風呂・プライベート湯がそのハードルを下げる鍵になりうるという仮説を、OTA公開データで定量的に読み解く。あわせて、貸切風呂を備える施設の希少価値と提供エリアの偏在を可視化し、富裕層訪日需要が高まる2026年夏の文脈に位置づける。
本記事における指標の定義
- ADR(平均客室単価):OTA等で公開されている販売価格の平均値。実際の成約価格とは異なります(REIT開示データとの照合では、成約ADRより平均+25〜30%高い傾向。売れ残った高価格帯プランがOTA上に残り続けるため、公開価格の平均が成約価格より上振れする構造による)。2名1室利用時の1室あたり料金(税込)・全プラン平均(素泊まり〜食事付きプランを含む)。
- OCC(稼働率):エリア内の総客室数に対する販売済み客室数の割合(OTA販売在庫に基づく推定値)。
- 口コミ言及率:宿泊者口コミ(多言語)をNLPで解析し、「貸切風呂」「温泉」等の話題に言及した口コミの割合。評価スコアではなく「話題に上った頻度」を示します。出典=ホテルバンク編集部調べ(NLP解析)。
- データ出典:メトロエンジンリサーチ、ホテルバンク編集部より作成
- — 訪日客の約6割が裸の共同浴に抵抗を示す一方、英語口コミの温泉言及率は大分27.2%・長野19.6%と高く、関心と行動制約が併存している。
- — 貸切風呂への口コミ言及率は大分で繁体字中国語5.82%・英語4.05%と日本語(3.32%)を上回り、訪日客ほど積極的に話題化している。
- — 貸切風呂シグナルは静岡1,638件・神奈川1,241件に偏在し、伊豆・箱根・草津・湯布院に集中することが希少価値を生む。
- — 2026年夏のお盆ADRは静岡+14.7%・大分+16.6%と上昇し、富裕層訪日需要のなか貸切風呂の差別化価値が一段と高まる。
訪日客の過半が抱える「共同浴ハードル」と、温泉への強い関心の併存
まず確認しておきたいのは、訪日客が温泉そのものに無関心なわけではない、という点である。むしろ逆で、温泉は訪日体験の中核的な期待値のひとつになっている。ホテルバンク編集部が多言語口コミをNLP解析した結果を見ると、温泉地を多く抱える大分県では、英語口コミの27.2%が「温泉(onsen)」に言及しており、韓国語では35.2%、繁体字中国語では31.3%と、いずれも極めて高い水準にある。長野県でも英語の19.6%、静岡県(伊豆)でも17.2%が温泉に触れている。温泉への憧れは、国を問わず確かに存在する。
しかしながら、その憧れと実際の入浴行動のあいだには溝がある。複数の業界調査では、訪日客の約6割が共同浴(裸での大浴場利用)に何らかの抵抗を示すと報告されている。理由は「他人と裸になることへの心理的抵抗」が中心で、これに「タトゥーによる入浴拒否への不安」が続く。つまり、温泉を「見たい・体験したい」気持ちと、「裸の共同浴は避けたい」という行動の制約が同居しているのが、訪日客の温泉体験の実像だといえる。この溝を埋める実務的な解が、家族・カップル・個人単位で湯を独占できる貸切風呂・プライベート湯である。
出典:ホテルバンク編集部調べ(NLP解析、24ヶ月・言語別口コミ言及率)
貸切風呂が存在するエリアでは、訪日客もしっかり言及している
仮説を検証するうえで重要なのは、「貸切風呂がある施設では、訪日客がそれを実際に評価しているか」である。データはこれを支持する。温泉県・大分の口コミを言語別に見ると、貸切風呂(プライベート湯)への言及率は繁体字中国語で5.82%、韓国語で3.74%、英語で4.05%と、いずれも日本語(3.32%)を上回るか同等の水準にある。共同浴への言及が日本人ほど多くない一方で、貸切風呂はむしろ訪日客のほうが積極的に話題にしている構図が見える。
個別施設の口コミにも、その手応えは表れている。修善寺温泉のある施設に寄せられた英語口コミには「Hot baths – private and public(貸切と共同、両方の湯)」と、両方の選択肢が用意されていることを評価する声があった。共同浴を一律に強いるのではなく、「貸切も選べる」という設計そのものが、訪日客の安心材料になっている。裸文化を押しつけるのではなく、多様な入浴スタイルの選択肢を提示することが、温泉体験のハードルを下げる——口コミデータは、この方向性を裏づけている。猛暑が続くなかで露天風呂への言及自体が伸びている点については、猛暑下で伸びる『露天風呂』言及 — 口コミトレンドが映す温泉選好の高まりが口コミトレンドの側面から掘り下げている。
出典:ホテルバンク編集部調べ(NLP解析、大分県・言語別、温泉/貸切風呂の言及率)
貸切風呂は「どこにでもある」わけではない — 提供エリアの強い偏在
では、ハードルを下げる鍵となる貸切風呂は、全国にまんべんなく存在するのだろうか。答えは明確に「ノー」である。宿泊客が貸切風呂・プライベート湯に言及した口コミの量(消費者シグナル)を都道府県別に集計すると、提供エリアには強い偏りがあることが分かる。
もっとも厚いのは伊豆を擁する静岡県で、貸切風呂への言及シグナルは集計上1,638件と突出している。これに神奈川県(箱根を含む、1,241件)、千葉県(1,006件)、群馬県(草津・伊香保、832件)、温泉県・大分県(湯布院・別府、585件)が続く。一方で、訪日客が周遊で訪れる地方の温泉地のなかには、貸切風呂を備えた施設の口コミシグナルが100件を下回る県も少なくない。貸切風呂は、伊豆・箱根・草津・湯布院といった一部の「貸切文化が根づいたエリア」に集中しており、訪日客がアクセスしやすい立地に均等に分布しているわけではない。この偏在こそが、貸切風呂を備えた施設の希少価値を生んでいる。湯そのものの「絶景露天風呂」についても高評価エリアと希少エリアの偏りが確認されており、その地理分布は口コミが映す「絶景露天風呂」— 高評価エリアと希少エリアのデータ分析で詳しく分析している。
出典:メトロエンジンリサーチ、ホテルバンク編集部より作成(貸切風呂への口コミ言及シグナル・都道府県別、上位施設集計)
地図上に落とすと、この偏在はさらに直感的になる。貸切風呂のシグナルが厚いエリアは、首都圏から日帰り〜1泊圏の伊豆・箱根・草津・伊香保と、九州の湯布院・別府に二極化している。地方の名湯——たとえば東北や山陰の温泉地——では、貸切文化を持つ施設はあっても、訪日客が予約段階で見つけやすい形で供給されているとは限らない。
出典:メトロエンジンリサーチ、ホテルバンク編集部より作成(円の大きさ=貸切風呂言及シグナルの相対量)
2026年夏 — 富裕層訪日需要のなかで高まる温泉地の単価
この希少価値は、需要が最も厚くなる夏に一段と際立つ。訪日外客数は2026年に入っても高水準を維持し、JNTOによれば第1四半期だけで2年連続の1,000万人超えを記録した。欧米では米国・英国、ASEANではベトナム・マレーシアが牽引役となっており、観光庁が誘致を強める「高付加価値旅行者(1回あたり100万円以上を消費する富裕層)」の層も着実に厚みを増している。富裕層は人数こそ訪日客全体の約2%だが、消費額では約19%を占めるとされ、彼らが好む高級温泉旅館・貸切湯付き客室の需要は構造的に強い。国別に「どの宿が外国人個人客に選ばれているか」という観点は、駅近で外国人個人客に選ばれる宿 — 口コミ×国別需要マトリクス2026が口コミと国別需要のマトリクスで整理している。
OTA公開データで温泉県のお盆期間(8月13日〜15日)のADRを前年同月比で見ると、需要の強さが価格に表れている。静岡県(伊豆)のお盆ADRは2025年の約¥56,600から2026年は約¥64,900へと前年同月比+14.7%、大分県(湯布院・別府)は約¥51,000から約¥59,500へと+16.6%上昇した。京都府(+29.9%)や北海道(+12.9%)といった主要エリアでも夏の単価上昇は顕著で、温泉・リゾート需要が広く価格を押し上げている。貸切風呂のように「裸の共同浴ハードルを越えて訪日富裕層を取り込める」希少な設備は、この単価上昇局面で差別化要因としての価値を一段と高めている。
出典:メトロエンジンリサーチ、ホテルバンク編集部より作成(お盆期間 8/13木〜8/15土、2名1室・税込、前年同月比)
需給の堅調さは上場REITの開示データからも裏づけられる。リゾート・温泉系の運営実績をベンチマークとして見ると、星野リゾート・リート投資法人(3287)の2026年4月の稼働率は79.3%、ADRは約¥21,600(成約ベース)で、ADRは前年同月比+0.3%とコロナ後の高水準を維持している。なお、いちごホテルリート投資法人(3463)、インヴィンシブル投資法人(8963)、日本ホテル&レジデンシャル投資法人(3472)、ジャパン・ホテル・リート投資法人(8985)、森トラストリート投資法人(8961)、霞ヶ関ホテルリート投資法人(401A)を含む上場ホテルREIT各社も、インバウンド回復を背景に運営指標の改善基調が続いている。REIT開示ADRは成約価格(実績)、OTA公開ADRは販売価格(公開価格)であり水準を直接比較できないため、ここでは前年同月比の方向性として参照している。
貸切風呂で高い支持を集める温泉宿(口コミ言及率ベース)
貸切風呂が訪日客の温泉体験のハードルを下げる——この仮説を体現しているのが、宿泊客から貸切風呂への言及が特に多い温泉宿である。以下は、伊豆・湯布院エリアで貸切風呂への口コミ言及率が高い施設を、ホテルバンク編集部の集計から抜粋したものである(言及率=宿泊客口コミのうち貸切風呂に触れた割合、評価スコアではなく話題化の頻度を示す)。いずれも家族・カップル単位で湯を独占できる設計に強みを持ち、共同浴に抵抗のある層にも温泉体験を届けやすい施設群といえる。
| エリア | 施設名 | 貸切風呂 言及率 | 口コミ件数 |
|---|---|---|---|
| 伊豆・修善寺 | 湯めぐりの宿 修善寺温泉 桂川 | 32.9% | 548 |
| 湯布院 | 和の宿 夢月 | 30.6% | 98 |
| 南熱海・伊豆多賀 | 味と湯の宿 ニューとみよし | 28.3% | 269 |
| 別府・湯布院 | 旅亭 松葉屋 | 27.1% | 140 |
| 伊豆・伊東 | 伊豆・伊東温泉 大東館 | 24.3% | 379 |
| 大分・由布院温泉 | 絶景の宿さくら亭 | 21.2% | 189 |
出典:ホテルバンク編集部調べ(NLP解析、24ヶ月・貸切風呂への口コミ言及率順、N=各施設の総口コミ件数)
これらの施設に共通するのは、貸切風呂を「特別な追加体験」ではなく、宿の基本価値として前面に置いている点である。言及率が3割に達する施設では、宿泊客の体験の核心に貸切風呂が組み込まれており、口コミを通じて次の訪日客への安心メッセージとして機能している。共同浴に踏み込めない層にとって、こうした施設は温泉体験への「入り口」になりうる。
まとめ — 「選べる温泉」が訪日客と温泉地をつなぐ
本稿で検証してきたデータは、ひとつの方向性を一貫して示している。訪日客は温泉そのものを強く望んでいる一方で、その過半が裸での共同浴に抵抗を抱えている。この溝を埋めるのが貸切風呂・プライベート湯であり、現に貸切風呂を備えるエリアでは、訪日客が日本人以上に積極的にそれを話題にしている。つまり「裸文化の強要」ではなく「入浴スタイルの選択肢」を提供することこそが、温泉体験のハードルを下げ、富裕層を含む訪日需要を取り込む鍵になる。
同時に明らかになったのは、その鍵が一部のエリアに偏在しているという事実である。伊豆・箱根・草津・伊香保・湯布院といった「貸切文化が根づいたエリア」に供給が集中する一方、訪日客が周遊する地方の名湯では、貸切風呂が予約段階で見つけやすい形で十分に提供されているとは言いがたい。2026年夏、温泉地の単価が前年同月比で二桁上昇するなか、貸切風呂という希少な設備は差別化の余地が大きく、地方温泉地にとっては訪日富裕層を取り込む成長機会となりうる。「選べる温泉」を可視化し、訪日客の目に届く形で発信することが、これからの温泉地の競争力を左右していくだろう。
⚠ 将来日程のADRに関する注意:本記事の2026年夏(お盆期間)のADRは調査時点でOTAに公開されている販売価格の平均であり、チェックイン日に近づくにつれて変動します。現時点で高く設定されている価格が直前値下げで下落する可能性、また新規プラン追加で上振れする可能性がある点にご留意ください。
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参考資料・出典一覧
- ■ データソース
- メトロエンジンリサーチのOTA公開価格データ(お盆期間ADR・貸切風呂言及シグナル都道府県別)、ホテルバンク編集部による多言語口コミNLP解析(24ヶ月)、JNTO訪日外客統計、観光庁および上場ホテルREIT月次開示を組み合わせて作成。
- ■ 試算前提
- ADRはOTA公開販売価格(2名1室・税込・全プラン平均)であり成約価格とは異なる(REIT開示との照合では平均+25〜30%上振れ傾向)。お盆ADRは8月13〜15日・前年同月比。口コミ言及率は話題化頻度であり評価スコアではない。
- ■ 限界・留意点
- 将来日程のADRは調査時点の公開価格で確定値ではなく直前変動の可能性がある。口コミ言及シグナルは公開口コミ量に依存し未掲載分は反映されない。REIT開示ADR(成約)とOTA公開ADR(販売)は水準を直接比較せず方向性のみ参照している。
- JNTO(日本政府観光局)「訪日外客数(2026年5月推計値)」
- JNTO「訪日外客統計」
- 観光庁「訪日旅行での高付加価値旅行者の誘致促進」
- JNTO「海外富裕層に響く、高付加価値な体験開発に必要な3つのポイント」
- FAST TRAIN JAPAN合同会社「インバウンド観光客は温泉に興味がない?関心度と興味がない理由を徹底調査!」
- 星野リゾート・リート投資法人(3287)月次運営状況(2026年4月)
- ホテルバンク編集部調べ(多言語口コミNLP解析、24ヶ月)
- メトロエンジンリサーチ — OTA公開価格データ(お盆期間ADR、貸切風呂言及シグナル都道府県別)
