カスタマーハラスメント(以下カスハラ)への対応を事業主に義務づける改正労働施策総合推進法は、2026年10月1日に施行され、すでに2週間近くが経過した。労働者を1人でも雇用していれば対象で、中小企業や個人事業主への経過措置はない。施行前に整え終えた施設がある一方で、「方針は掲げたが相談窓口と記録の様式がまだ」「清掃会社のスタッフが受けた場合の扱いが決まっていない」という施設も少なくないだろう。本稿では、厚生労働省の指針(令和8年厚生労働省告示第51号)が求める措置を宿泊業の4つの場面に翻訳し、先行する自治体条例との関係を整理したうえで、50室・100室・200室の施設モデルで整備にかかる年間の目安を推計する。施行日はもう過ぎているが、整える順番と規模感がわかれば、残りの作業は短い。
本記事における用語・指標の定義
- 指針:「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」(令和8年厚生労働省告示第51号、2026年2月26日公布、2026年10月1日適用)。本文中の条文引用はこの告示および改正労働施策総合推進法による。
- 施設数:厚生労働省「衛生行政報告例」による旅館業の営業許可施設数(各年度末現在)。旅館・ホテル営業、簡易宿所営業、下宿営業の合計。
- 入職率・離職率:厚生労働省「雇用動向調査」による年間の入職者数・離職者数を年初の常用労働者数で割った割合(2024年計、2025年8月26日公表)。
- 整備コストの目安:ホテルバンク編集部による推計。従業者数は客室数を宿泊業の従業者1人あたり客室数2.02室で割って置き、時間単価は令和8年度地域別最低賃金の全国加重平均1,177円に事業主負担分を上乗せした1,400円を用いた。実際の費用は施設の体制や外部委託の有無で変わる。
- データ出典:厚生労働省、観光庁、各自治体の公表資料。従業者1人あたり客室数はメトロエンジンリサーチの集計に基づく。
Key Takeaways
- カスハラ対策の措置義務は2026年10月1日に施行済み。指針が求めるのは「方針の明確化と周知」「相談体制」「事後の迅速・適切な対応」「悪質事案への抑止措置」の4本柱に、プライバシー保護と不利益取扱い禁止を加えた構成である。
- 派遣スタッフは派遣先にも措置義務がある。清掃会社など委託先の従業員については、方針を併せて示し相談にも対応することが「望ましい」とされ、法律上の義務とは線が引かれている。
- 条例を先行施行した7都道県を含む14自治体(2026年10月時点の編集部集計)の条例はいずれも罰則を持たず(三重県桑名市の条例のみ行為者への警告・氏名公表の規定を置く)、事業者の責務は努力義務。法の4本柱を整えれば条例の要請も概ね満たすが、顧客向け周知と都道府県の相談窓口案内を足すと重複なく収まる。
- 整備コストの目安は初年度で50室約12万円・100室約22万円・200室約38万円、継続年は1室あたり年1,650〜1,700円(いずれも編集部推計)。継続年の負担は販売可能な客室1室1泊に直すと5円に満たない。
- 旅館業の営業許可施設は98,338施設(2024年度末、前年度比+5.2%)と拡大が続き、宿泊業・飲食サービス業の離職率は一般労働者18.1%・パートタイム29.9%と産業計を大きく上回る。仕組みで従業員を守ることは、採用と定着の両面に効く投資になる。
施行済みの制度の骨格 — 定義と4本柱を条文で押さえる
まずは制度の事実関係を条文ベースで確認しておきたい。根拠法は2025年6月11日に公布された改正労働施策総合推進法(令和7年法律第63号)で、カスハラ対策の措置義務は2026年10月1日に施行された。具体的な措置の中身は2026年2月26日公布の指針(令和8年厚生労働省告示第51号)が定めており、こちらも施行日から適用されている。対象は労働者を雇用するすべての事業主で、厚生労働省の改正ポイント資料も「全企業が対象です」と明記する。パワハラ防止措置のときに設けられた中小企業向けの猶予期間は、今回は存在しない。
指針はカスハラを、職場において行われる①顧客等の言動であって、②その雇用する労働者が従事する業務の性質その他の事情に照らして社会通念上許容される範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるもの、と3要素で定義し、①から③までを全て満たすものをいうとする。ここで「顧客等」には、今後サービスを利用する可能性がある潜在的な顧客、取引の相手方、施設の利用者とその家族、施設の近隣住民までが含まれる。宿泊業に引き直せば、予約前の問い合わせ客、宴会の幹事、送迎を依頼する旅行会社の担当者、館の騒音に申し入れをする近隣住民までが射程に入るということだ。また指針は、対面だけでなく電話やSNS等のインターネット上で行われるものも含まれると明記しており、OTAのメッセージ機能や口コミ投稿での言動が対象外になるわけではない。
一方で、顧客等からの苦情の全てがカスハラに該当するわけではなく、客観的にみて社会通念上許容される範囲で行われたものは「正当な申入れ」であると指針は念を押す。障害者が社会的障壁の除去を求める意思表示をすること自体もカスハラには当たらず、合理的配慮の提供が引き続き求められる。線引きの判断軸は「言動の内容」と「手段や態様」の二つで、どちらか一方だけが範囲を超える場合でも該当し得る。典型例として指針が挙げるのは、契約内容を著しく超えたサービスの要求や契約金額の著しい減額要求(内容の側)、暴行・土下座の強要・SNSへの悪評投稿をほのめかす脅し・長時間の居座りや電話での拘束(手段や態様の側)などである。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 根拠法 | 改正労働施策総合推進法(2025年6月11日公布、令和7年法律第63号)第33条 |
| 指針 | 令和8年厚生労働省告示第51号(2026年2月26日公布、第33条第4項に基づく) |
| 施行日 | 2026年10月1日(施行済み) |
| 対象事業主 | 労働者を雇用するすべての事業主。業種・規模による区別なし、中小企業の経過措置なし |
| カスハラの定義 | ①顧客等の言動 ②業務の性質その他の事情に照らして社会通念上許容される範囲を超えたもの ③労働者の就業環境が害される — の3要素を全て満たすもの |
| 講ずべき措置 | (1)方針の明確化と周知・啓発 (2)相談体制の整備 (3)事後の迅速かつ適切な対応(事実確認・被害者への配慮・再発防止) (4)特に悪質な言動への対処方針と抑止措置 (5)相談者のプライバシー保護・不利益取扱いの禁止 |
| 派遣労働者 | 派遣先も派遣労働者について自社の労働者と同様に措置を講ずる必要がある |
| 他社の労働者 | 自社従業員以外の者(委託先の従業員・個人事業主等)への顧客の言動についても同様の方針を併せて示すことが「望ましい」(指針第7) |
出典:厚生労働省「令和8年厚生労働省告示第51号」、同「ハラスメント対策・女性活躍推進に関する改正ポイントのご案内」よりホテルバンク編集部作成
措置の4本柱は、いずれも「個人の力量」ではなく「組織の仕組み」を問うている。指針が方針の周知とあわせて定めるよう求める「対処の内容」の例には、労働者から管理監督者等に直ちに報告し指示を仰ぐこと、可能な限り労働者を一人で対応させないこと、やり取りを録音・録画すること、十分な説明の後も繰り返しが続く場合は一定時間の経過をもって退店を求めたり電話を切ったりすること、犯罪に該当し得る言動は警察へ通報すること、が並ぶ。これらはそのまま宿の対応フローの骨格になる。
宿泊業の4つの場面への翻訳 — フロント・客室清掃・レストランと大浴場・非対面
指針は業種を問わない書き方をしているため、実務に落とすには自館の場面に合わせた翻訳が要る。宿泊業で負荷が集中しやすいのは、深夜のワンオペやチェックイン待ちの列を抱えるフロント、客室内で1対1になりやすい客室清掃、飲酒を伴うレストランと裸の状態で注意を要する大浴場、そして顔の見えない電話・OTAメッセージ・口コミ投稿の4つである。表2は、指針の柱ごとに各場面で「最初に決めておくこと」を一行ずつ置いたものだ。8月に掲載した前稿では3現場の対応設計を扱ったが、本稿では非対面チャネルと委託先スタッフの線引きまで広げている。
| 指針の柱 | フロント(深夜ワンオペ・チェックイン待ちの列) | 客室清掃(客室内1対1・委託スタッフ) | レストラン・大浴場 | 電話・OTAメッセージ・口コミ投稿 |
|---|---|---|---|---|
| 方針の明確化と周知 | 館内掲示と予約確認メールに「従業員を保護する」方針を明記。待ち列が長い時間帯の案内文言を統一 | 在室中の入室可否・追加清掃の受諾範囲を手順書に明文化。委託先にも同じ方針を文書で共有 | 提供時間・再提供・返金の判断基準をメニューと利用案内に事前明示。浴場の入退場ルールを掲示 | 電話・メッセージの対応時間と「一定時間経過後に終了する」旨を案内文に記載 |
| 相談体制の整備 | 夜勤者が即時連絡できる責任者の連絡先を勤務表に常時掲載。深夜は電話一本で二人目を呼べる体制 | 客室内では対応せず退室してフロントへ引き継ぐルール。委託スタッフからの相談も同じ窓口で受ける | ホール責任者と支配人の二層で受ける。大浴場は巡回担当が単独で説得しない | 投稿・メッセージを見た担当者が一人で抱えず、翌営業日までに窓口へ共有する運用 |
| 事後の迅速・適切な対応 | 当日中に事実確認と記録。再訪時は同一担当を外す配置調整、対応後の休憩を即時許可 | 担当客室のローテーション変更を申告なしで実施。委託先に事実確認への協力を求める | 録画範囲(共用部)を規定し、確認後は被害者と行為者を引き離す | OTAのガイドライン違反の投稿は運営会社に通報し、記録を残す。従業員の個人情報が含まれる場合は削除要請 |
| 悪質事案への抑止措置 | 警察通報・警告文・次回以降の宿泊契約を結ばない判断の権限者を明示(旅館業法の宿泊拒否とは別枠で整理) | 客室内での撮影・身体接触があれば即時退室と警察通報を規定 | 退店要請の文言テンプレートを用意し、責任者が読み上げる形に統一 | 同趣旨の連絡が繰り返される場合は書面回答に一本化。民事保全法の仮処分を含む法的対応の相談先を決めておく |
| プライバシー保護・不利益取扱い禁止 | 相談内容は窓口担当と責任者に限定し、記録様式に閲覧権限を明記。相談したこと・事実確認に協力したことを理由に不利益な取扱いをしない旨を就業規則または服務規律に規定し、全員に周知。派遣スタッフについて派遣契約を打ち切る等の扱いも禁止される | |||
出典:令和8年厚生労働省告示第51号の措置内容をもとにホテルバンク編集部作成
表2で意識しているのは、判断を個人から組織へ移す設計である。「客室内では対応しない」「一定時間を超えたら二人目」「文言はテンプレートを読み上げる」といった規定は、経験の浅いスタッフに「自分で決めなくてよい」という安心を与える。指針もまた、方針の明確化と再発防止の両方で、商品・サービス・接客における要因や顧客とのコミュニケーション上の行き違いといった背景の改善を図ることを求めており、仕組みづくりと接客品質の底上げは同じ作業の表裏といえる。
委託先・派遣スタッフの線引きは、ここで明確にしておきたい。派遣労働者については、派遣先も自社の労働者と同様に4本柱の措置を講ずる必要があると指針は述べる。相談を理由に派遣契約を拒むといった不利益取扱いも、派遣先に対して禁止される。これに対し、清掃会社の従業員のように他の事業主が雇用する労働者や個人事業主が自館で受けた言動については、法律上の措置義務は雇用主である委託先にあり、施設側には「同様の方針を併せて示すこと」「相談があれば4本柱を参考に適切な対応を行うよう努めること」が「望ましい」取組として置かれている。つまり義務の名宛人は違うが、現場で起きる事象は同じであり、方針の掲示と相談窓口を委託先スタッフにも開くことが、指針の趣旨に最も沿った整え方になる。逆に自館の従業員が取引先の従業員に対して行った言動については、相手方の事業主から事実確認への協力を求められた場合に応じるよう努める責務がある。
別論点:宿泊を断れるかどうかは旅館業法で決まる
本稿の措置義務は「従業員をどう守るか」の基準であり、「宿泊を拒めるか」は別の法律である旅館業法の論点になる。2023年12月13日施行の改正旅館業法は、宿泊拒否が原則として認められない第5条に新たな事由を加え、不当な割引や契約にない送迎など過剰なサービスの要求、長時間にわたる不当な要求、手段や態様が不相当な要求を繰り返す「特定要求行為」を行った者の宿泊を拒めるようにした(旅館業法施行規則第5条の6)。観光庁のモデル宿泊約款もこれに合わせて第5条に「施行規則第5条の6で定める要求を繰り返したとき」の号を新設し、拒否した場合に理由の説明を求められる第5条の2を置いている。一方で、障害者が社会的障壁の除去を求める場合や、営業者側の過失で生じた損害への対応を求める場合は拒否事由に当たらない。カスハラ対策の抑止措置に「次回以降の宿泊契約を結ばない」を含める場合は、約款の第5条が改定済みかを先に確認し、労務管理の方針と宿泊拒否の判断を別々の文書で運用することが混同を避ける近道である。旅館業法の全体像は旅館業法の3区分と2018・2023年改正の解説にまとめている。
先行する自治体条例との関係 — 条例施行済み地域の施設が足すべきもの
法律に先んじて、2025年4月1日には東京都・北海道・群馬県の条例が同時に施行された。その後、愛知県(2025年10月)、静岡県・栃木県(2026年4月)、埼玉県(2026年7月)が続き、市町村レベルを含めると一般財団法人地方自治研究機構が整理する条例は2026年10月時点で14自治体に達する(徳島県牟岐町の自治体職員向け条例を除く、ホテルバンク編集部集計)。図1はこの累積を施行月ベースで追ったもので、2026年4月に4自治体が一斉に施行され、法施行の半年前に条例が先に面を広げていた様子がわかる。
出典:一般財団法人地方自治研究機構「カスタマーハラスメント防止に関する条例」掲載分(2026年10月時点)よりホテルバンク編集部作成
条例と法律の性格の違いは明快である。条例はいずれも罰則を持たず、行為者への警告と氏名公表の規定を置く三重県桑名市を除けば理念型で、事業者の責務は「努めなければならない」という努力義務にとどまる。東京都条例は「何人も、あらゆる場において、カスタマー・ハラスメントを行ってはならない」と顧客側の禁止を正面から規定し、事業者には就業者の安全確保と行為者への中止の申入れ等を努力義務として置いた。群馬県条例も事業者に、就業者の安全を速やかに確保し中止を申し入れること、研修や広報物の掲示、複数人での組織的対応、必要に応じた退店要請や警察への連絡を求めている。北海道条例は道が指針を作成・公表し相談支援体制を整える構成で、これも罰則はない。保護対象の「就業者」は条例では従業員に限らず、フリーランスや公務員まで含む広い概念で定義されている点は、法律より射程が広い。
| 区分 | 施行日 | 事業者側の位置づけ | 罰則 | 特徴 |
|---|---|---|---|---|
| 東京都条例 | 2025年4月1日 | 努力義務(安全確保・中止申入れ) | なし | 「何人も」への禁止規定、都の指針・マニュアル |
| 北海道条例 | 2025年4月1日 | 努力義務 | なし | 議員提案、道の指針と相談支援体制 |
| 群馬県条例 | 2025年4月1日 | 努力義務(安全確保・中止申入れ・研修) | なし | 県の情報提供・啓発、組織的対応の例示 |
| 愛知県条例 | 2025年10月1日 | 努力義務 | なし | 知事が指針を定め相談・助言 |
| 静岡県・栃木県条例 | 2026年4月1日 | 努力義務 | なし | 指針の策定、情報提供、啓発、相談・助言 |
| 埼玉県条例 | 2026年7月1日 | 努力義務 | なし | 指針の作成・公表、表彰制度 |
| 改正労働施策総合推進法 | 2026年10月1日 | 措置義務(4本柱+プライバシー・不利益取扱い禁止) | 刑事罰なし(行政による指導等) | 全事業主が対象、経過措置なし、派遣先にも義務 |
出典:各自治体の条例・解説資料、一般財団法人地方自治研究機構、厚生労働省資料よりホテルバンク編集部作成
それでは、条例が施行済みの地域で営業する施設は、法施行後に何を足せばよいのか。結論からいえば、法の4本柱を整えれば条例の事業者責務は概ね満たされる。条例が求める安全確保・中止申入れ・研修・組織的対応は、指針の「対処の内容」と「事後対応」「抑止措置」にそのまま含まれるからだ。そのうえで、条例地域ならではの上乗せは三つある。第一に顧客向けの周知で、条例は顧客側にも責務や禁止規定を置いているため、館内掲示や予約サイトの案内文に条例名を併記すると、従業員保護の方針が「自館の都合」ではなく「地域のルール」として伝わる。第二に都道府県の相談窓口と指針の活用で、東京都・群馬県などは事業者向けの指針・マニュアル・相談窓口を用意しており、自館の相談体制の二次窓口として記載しておける。第三に就業者の範囲で、条例の「就業者」は委託先スタッフや個人事業主を含むため、指針第7が「望ましい」とする委託先への方針明示を、条例地域では標準装備にしておくのが自然である。いずれも追加の設備投資は要らず、文書と掲示の書き足しで済む。
規模別の整備コスト — 50室・100室・200室モデルの年間目安(推計)
整備にいくらかかるのか。ここでは相談窓口の設置、掲示物・約款の追記、記録様式の作成、研修時間の4項目を、客室規模の異なる3つのモデル施設で積み上げた。前提は次のとおりである。従業者数は客室数を宿泊業の従業者1人あたり客室数2.02室(ホテルバンク編集部の試算)で割り、50室を約25人、100室を約50人、200室を約100人と置いた。時間単価は令和8年度地域別最低賃金の全国加重平均1,177円(2026年9月3日に厚生労働省が答申を公表)に事業主負担分を上乗せした1,400円とし、研修は初年度に全員1.5時間と窓口担当者3時間、継続年は全員1時間に加え、新規入職者(入職率21.2%を丸めて従業者の21%と置いた)に1.5時間を見込んだ。文書化と記録様式の作成は管理職の工数、掲示物は印刷実費、約款の追記は外部専門家のレビュー費を推計で置いている。いずれも編集部の推計であり、既存のハラスメント窓口と一体化する場合や外部委託の有無で上下する。
出典:ホテルバンク編集部推計(従業者1人あたり客室数はメトロエンジンリサーチ集計、時間単価は厚生労働省「令和8年度地域別最低賃金」を基に設定)
| 項目 | 50室(約25人) | 100室(約50人) | 200室(約100人) |
|---|---|---|---|
| 初年度 | |||
| 研修(全員1.5時間+窓口担当3時間) | 60,900 | 117,600 | 226,800 |
| 方針文書・対処手順・記録様式の作成(管理職16〜32時間) | 22,400 | 33,600 | 44,800 |
| 掲示物・案内文の制作(印刷実費) | 10,000 | 15,000 | 25,000 |
| 宿泊約款・利用規約の追記レビュー(外部専門家) | 30,000 | 50,000 | 80,000 |
| 初年度合計(1室あたり) | 123,300(2,466) | 216,200(2,162) | 376,600(1,883) |
| 継続年(2年目以降) | |||
| 研修(全員1時間+新規入職者1.5時間) | 46,000 | 92,100 | 184,100 |
| 相談窓口の運用・記録・年次見直し(月2〜8時間) | 33,600 | 67,200 | 134,400 |
| 掲示物の更新 | 5,000 | 8,000 | 12,000 |
| 継続年合計(1室あたり) | 84,600(1,692) | 167,300(1,673) | 330,500(1,653) |
出典:ホテルバンク編集部推計。時間単価1,400円、従業者数は客室数÷2.02室で算出。外部相談窓口を委託する場合は別途費用が加わる
初年度の目安は50室で約12万円、100室で約22万円、200室で約38万円である。内訳を見ると、どの規模でも研修の人件費が半分前後を占め、設備や外注はごく一部にとどまる。つまり整備の本体は「時間の確保」であり、厚生労働省が2026年9月に改訂したカスタマーハラスメント対策企業マニュアルやリーフレット、動画教材を使えば、教材作成の工数はほぼ要らない。継続年は1室あたり年1,650〜1,700円で規模によらずほぼ一定になり、販売可能な客室1室1泊(365日)に直すと5円に満たない。稼働率を通年70%と仮定して販売客室1泊あたりに割り戻しても7円弱である。客室清掃の人件費が1室640円という水準と並べれば、従業員保護の仕組みが運営コストの中でどれだけ小さい位置にあるかがわかる。
この推計は時間単価と人員配置の置き方で動く。表5は、100室モデルの継続年コストを、時間単価(1,400円・1,700円・2,000円)と従業者1人あたり客室数(1.5室・2.02室・3.0室)の2軸で振り直したものである。人員を厚く置く配置(1.5室、約67人)で時間単価2,000円の場合でも1室あたり年2,802円、販売可能な客室1室1泊に直して8円弱にとどまる。逆に人員を絞った3.0室(約33人)では、時間単価1,400円で年1,360円まで下がる。どの組み合わせでも、継続年の負担は1室あたり年約1,400〜2,800円のレンジに収まる。
| 時間単価 \ 従業者1人あたり客室数 | 1.5室(約67人) | 2.02室(約50人) | 3.0室(約33人) |
|---|---|---|---|
| 1,400円(本稿の前提) | 1,985 | 1,673 | 1,360 |
| 1,700円 | 2,394 | 2,014 | 1,634 |
| 2,000円 | 2,802 | 2,355 | 1,908 |
出典:ホテルバンク編集部推計。研修(全員1時間+従業者の21%にあたる新規入職者1.5時間)、相談窓口の運用(月4時間)、掲示物の更新(8,000円)を表4と同じ方法で積み上げ、時間単価と人員数のみを変えた。1.5室・3.0室は感度を見るための仮定値
なお、既にパワハラ・セクハラの相談窓口を持つ施設は、指針が「他のハラスメントの相談窓口と一体的に設置することも考えられる」と認めているため、窓口の新設費はほぼ不要になる。相談対応を外部機関に委託することも指針上は相談窓口の整備として認められており、管理職が少ない小規模施設では、社会保険労務士など顧問先の既存契約に相談対応を組み込む形が現実的だろう。
施設数は98,338に拡大、離職率は産業計の1.4〜1.6倍 — 定着というアップサイド
この整備がなぜ「義務の消化」ではなく投資になるのか。背景にあるのは、宿泊業の供給拡大と人の流動性の高さである。厚生労働省「衛生行政報告例」によると、旅館業の営業許可施設数は2024年度末(2025年3月末)で98,338施設と、前年度から4,863施設(+5.2%)増えた。内訳は旅館・ホテル営業が52,946施設(+1,908)、簡易宿所営業が44,901施設(+2,992)、下宿営業が491施設で、2020年度末の89,159施設から4年で9,000施設以上の純増になる(図2)。施設が増えれば働く場も増え、採用市場での競争は一段と広がる。
出典:厚生労働省「令和6年度衛生行政報告例の概況」(2025年10月21日公表、各年度末現在)よりホテルバンク編集部作成
人の動きはさらに速い。厚生労働省「雇用動向調査」の2024年計で、宿泊業・飲食サービス業の入職率は一般労働者で21.2%、パートタイム労働者で33.3%、離職率は一般労働者で18.1%、パートタイム労働者で29.9%だった。産業計の離職率は一般労働者11.5%、パートタイム労働者21.4%であるから、宿泊業・飲食サービス業はそれぞれ1.6倍、1.4倍の水準で人が入れ替わっている計算になる(図3)。入職率が離職率を上回っているため雇用は純増しているが、年間に一般労働者の5人に1人、パートの3人に1人が入れ替わる構造は、研修コストと接客品質の両方に効いてくる。
出典:厚生労働省「令和6年雇用動向調査結果の概況」(2025年8月26日公表、2024年計)よりホテルバンク編集部作成
離職の理由にまで踏み込むと、観光庁が2025年3月に公表した令和6年度「宿泊業の人材確保・育成の状況に関する実態調査」(離職者調査N=300)では、宿泊業を離れた理由として「クレーム対応が多く精神的にストレスだったから」が14.0%で上位に入り、「給料に不満があったから」の11.3%を上回った。処遇の改善には原資が要るが、顧客対応の負担を仕組みで軽くする作業は、表4で見たとおり1室あたり年2,000円前後で始められる。採用単価が1人61〜102万円という試算と並べれば、離職を数名でも減らせれば整備費は回収できる。カスハラ対策の整備を「離職理由の一角に直接効く定着投資」として位置づける根拠は、ここにある。
見落とされがちなのは、整備が採用面にも効く点だ。方針の明確化は指針上「顧客等に周知・啓発することも効果的」とされ、館内掲示や予約サイトの案内文として外に見える。求職者が応募先を比べるとき、「この宿は従業員を守る方針を掲げている」という情報は、時給の数十円差と同じくらい具体的な判断材料になる。条例地域で条例名を併記する意味も、顧客への抑止と求職者へのメッセージの両面にある。
まとめ — 施行後にいま整える順番
措置義務はすでに施行されている。まだ整っていない施設が最短で要件を満たす順番は、①「毅然と対応し従業員を保護する」方針と対処内容を1枚の文書にして全員に周知する、②相談窓口の担当者を決めて勤務表に載せる(既存のハラスメント窓口との一体化でよい)、③記録様式と「二人目を呼ぶ基準」「終了を告げる時間基準」を決める、④悪質事案の対処方針(警察通報・警告文・次回以降の契約拒否)と判断者を明示する、⑤相談者のプライバシー保護と不利益取扱い禁止を就業規則または服務規律に書き足す、の5段階である。派遣スタッフは自社従業員と同じ扱いにし、委託先スタッフには方針と窓口を開く。条例施行地域では条例名の併記と都道府県の相談窓口案内を加える。宿泊拒否の可否は旅館業法と約款第5条の別論点として切り分ける。
費用の目安は初年度で50室約12万円、100室約22万円、200室約38万円、継続年は1室あたり年1,650〜1,700円と、運営コストの中では小さい。98,338施設が人材を取り合い、年間に一般労働者の18.1%・パートの29.9%が入れ替わる業界で、従業員を守る仕組みを先に整えた施設から、定着と採用の両面で差がつき始める。施行日を過ぎたいまからでも、整える価値は十分に残っている。
よくある質問
Q. 施行日を過ぎてから整備を始めても間に合いますか。
措置義務は2026年10月1日から継続的に課されているもので、期限付きの届出ではありません。方針の文書化、相談窓口の指定、対処手順と記録様式、悪質事案の方針、プライバシー保護と不利益取扱い禁止の規定という順に整えれば、小規模施設でも数週間で要件を満たせます。厚生労働省のマニュアル(2026年9月改訂)とリーフレットが無料で利用できます。
Q. 清掃会社や派遣会社のスタッフがカスハラを受けた場合、施設側に義務はありますか。
派遣労働者については、派遣先である施設にも自社の労働者と同様の措置義務があります。清掃会社など委託先の従業員については法律上の措置義務は雇用主である委託先にありますが、指針は施設側にも同様の方針を併せて示し、相談があれば適切に対応するよう努めることを「望ましい」取組としています。東京都など条例地域では、条例の「就業者」が委託先スタッフを含むため、方針と窓口を開いておくのが自然です。
Q. カスハラを行った客の宿泊を断ることはできますか。
宿泊拒否の可否は旅館業法の論点です。2023年12月13日施行の改正旅館業法により、過剰なサービスの要求や長時間の不当な要求などの特定要求行為を繰り返した者の宿泊を拒むことができます。一方で障害者が社会的障壁の除去を求める場合などは拒否事由に当たりません。カスハラ対策の抑止措置とは別の文書で判断基準を運用することをおすすめします。
Q. 東京都や北海道の条例に対応済みなら、法律への対応は不要ですか。
条例の事業者責務は努力義務で罰則もありませんが、改正法は措置義務です。条例対応で方針や研修が整っていれば、相談窓口の指定、記録様式、悪質事案の対処方針、プライバシー保護と不利益取扱い禁止の規定という法の要件を書き足す形で収まります。条例名の併記と都道府県の相談窓口案内を加えると重複なく整います。
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参考資料・出典一覧
■ データソース
改正労働施策総合推進法と厚生労働省告示第51号(指針)の条文、厚生労働省「衛生行政報告例」(各年度末の旅館業営業許可施設数)、同「雇用動向調査」(2024年計の入職率・離職率)、観光庁「宿泊業の人材確保・育成の状況に関する実態調査」(離職者調査N=300)、一般財団法人地方自治研究機構の条例一覧(2026年10月時点)。従業者1人あたり客室数2.02室はメトロエンジンリサーチの集計による。
■ 試算前提
従業者数は客室数÷2.02室(50室・100室・200室で約25人・50人・100人)。時間単価は令和8年度地域別最低賃金の全国加重平均1,177円に事業主負担分を加えた1,400円。初年度は全員1.5時間の研修と窓口担当者(2〜4人)3時間、管理職による文書化16〜32時間、掲示物の印刷実費と宿泊約款の外部レビュー費。継続年は全員1時間の研修に従業者の21%にあたる新規入職者1.5時間、相談窓口の運用月2〜8時間、掲示物の更新費。表5は100室モデルで時間単価と従業者1人あたり客室数のみを変えた感度。
■ 限界・留意点
整備コストは編集部の推計で、外部相談窓口の委託費や録音・録画機器などの設備費は含まない。既存のハラスメント窓口と一体化する場合は窓口関連の工数が下がる。雇用動向調査の入職率・離職率は宿泊業・飲食サービス業の合算値で、宿泊業単独の値ではない。条例数は地方自治研究機構の掲載分に基づき、自治体職員のみを対象とする条例は除いた。法令の整理は一般的な解説であり、個別事案の判断は社会保険労務士・弁護士等の専門家への確認を前提とする。
■ 法令・指針
- 厚生労働省「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」(令和8年厚生労働省告示第51号、2026年2月26日)
- 労働政策研究・研修機構「厚生労働省告示第51号」掲載ページ
- 厚生労働省「ハラスメント対策・女性活躍推進に関する改正ポイントのご案内」(令和7年6月11日公布の改正法)
- 厚生労働省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル(令和8年度改訂版)」関係省庁連携会議資料(2026年9月10日)
- 厚生労働省「旅館業法の改正について」(2023年12月13日施行)
- 観光庁「モデル宿泊約款新旧対照表(抄)」
■ 自治体条例
- 一般財団法人地方自治研究機構「カスタマーハラスメント防止に関する条例」
- 東京都「東京都カスタマー・ハラスメント防止条例」ポータル
- 群馬県「群馬県カスタマーハラスメント防止条例」解説資料
- 北海道公報「北海道カスタマーハラスメント防止条例」(令和6年11月29日公布)
■ 政府統計
- 厚生労働省「令和6年度衛生行政報告例の概況」(2025年10月21日公表)
- 厚生労働省「令和6年雇用動向調査結果の概況」(2025年8月26日公表)
- 厚生労働省「令和8年度地域別最低賃金の答申状況」(2026年9月3日)
- 観光庁「令和6年度 宿泊業の人材確保・育成の状況に関する実態調査事業」報告書
- メトロエンジンリサーチ — 宿泊業の従業者1人あたり客室数(2.02室)の集計
